寂しくてセックスする女と万能感を得るためにセックスする男の話

寂しいだけでセックスをする女がいる。

人間なんて寂しがってのたうちまわる生き物だし、セックスする生き物なんだから、寂しいだけでセックスする女の子がいたって不思議でもなんでもない。そりゃあもう新宿東口なんかに行くとたくさんいる。寂しさが全身から溢れ出してたり、多層の鎧で慎重に覆われそのそれぞれの鎧で男を選択透過しようとしていたり、そういう表出の仕方はいろいろだけど…。結局のところ、彼女たちは周りの人間との適切な距離感を調節することができないのだ。その機能がぶっ壊れている。そして結果的にはいつも内側から溢れ出る寂しさゆえに男を近づけすぎて、おちんちんを挿入されることになる。


万能感を得たいがためにセックスする男がいる。

彼は、端的に言うと、常に自分の力を確信していたい。万能感なんてふつうの社会生活においては無用の長物だということを彼は理解していない。もしくは理解はしていても納得ができない。それほどまでに自分に対する不全感が彼の身体を蝕んでいる。彼は身近な他者に対してすらシンパシーのカケラも持ち合わせていない。自分自身のことで精一杯なのだ。セックスはただの果実だ。彼はそれをもぎとり、射精の高揚と共に、自分自身の力を確認し、そしてホッとする。


「ねえ、わたしのこと好き?」

万能感を得るためにセックスを求めるナンパ師が、寂しいだけでセックスをしちゃう女の子に、電話越しで甘えられてブチギレてしまいました。男の全身の毛穴という毛穴がよだつほど身震いして、そして心の底からその女の子を呪い殺そうと思いました。男はただただ、その女の存在が許せなかったのです。そこで全身全霊で「好きだよ」って答えれいれば、簡単にセックスにつながったかもしれないけれど、男はどうしてもそうは言えない。なぜなら、死ぬほど嫌いだから。寂しいだけの女が死ぬほど嫌いだから。女の猫撫で声のあらゆる音節から繰り出される音波が、男の神経をいちいち逆撫でして、発狂させようとしてくる。
女はナンパ師に支配されたがっている。寂しくて寂しくて自分自身をもてあまして男に支配してもらおうとしているのだ。その反面、ナンパ師は女を支配なんてしたくない。そんなことには喜びを感じない。彼はただ支配してみたいだけなのだ。その過程に充足する。だから女の子をおとすために口説いているにもかかわらず、すぐにおちてしまうとついイラっときてしまう。相手の弱さにつけこむのがナンパ師として自分のなすべきことなのに、相手には精神的にもっと強くあってほしいと願う。ややこしいかもしれないが、結局は誰にでもさらけだせるような弱さを自分の前にさらけ出されることがたまらなく不快なのだ。そこにはただ自分の能力を実感したいというエゴがある。他には何もない。そしてこんな男女のカップリングが街ではいたるところで日常のように成立している。


ー・ー・ー・ー・ー


男と女の関係に相性というものがあるのなら、それは一体どういったものだろうか。自分はすでにその答えの一端を知っている。相性の良さについて語るのは難しいけれど、悪さについてならすごく簡単だ。こいつとは一秒たりとも一緒に居たくないという異性像ならすぐにでも山ほど思い浮かぶ。もう少し客観的に世の中を眺め回してみても、神経質な男にノリノリな女は口説けないし、体育会系の男とメンヘラちゃんはおそらく長くは続かない。貧乏人と贅沢好きな女、インポとヤリマン。絶え間なく愛を注ぐことを生まれながらの技能としてもちそれが生きることと等価であるような女とそんな愛の兆候に一切気付けないような反応できないような鈍感な男の組み合わせも相当悲劇的でヤバい。口説くのに失敗するということであればまだマシかもしれない。本当の相性の悪さは、男を口説き方自体がわからないという事態にすら陥らせる。
そういう根本的な相性の悪さを超えて、ナンパ師はあらゆるセックスチャンスをモノにしていかなければならないというのは自分の偏執狂的な思い込みに過ぎないのだろうか。くだらない神経症的なコンプリート欲求だろうか。「自分に生理的嫌悪感を引き起こす女の子も、最高に気が合う女の子も、セックスというアクティビティの前では等価なはずだ」という信念も?それは親子関係に少し似たものがある。親は子を、子は親を、自分では選べない。相性がよければそれにこしたことはないけれどそうじゃないことだってたくさんあるだろう。けれどもその関係は強制されたまま半永久的に続く。関係の解消はありえない。ナンパでは一応女の子を自分で選ぶことはできる。けれどもセックスという目的のために、自らの支配欲求の充足のために、彼らはありとあらゆる性格の不一致を受け入れることを強制される。彼らは目的のために制約されたルールの上でプレイしなければならないのだ。ナンパがそういうルールのゲームであるという妄想は気が狂ったものだろうか?


ナンパのプロセスの極意をあえて一言で言えば、それは女の子の欲求につけこむということに他ならない。それは必ずしも彼女たちの欲求を満たしてやるということを意味するのではない。彼女の何かしらの欲求を利用して、それを上手にセックスに持っていくというのがナンパの本質だ。純粋に性欲や好奇心の強い女の子相手ならそんなに工夫する必要もないかもしれない。見栄のための彼氏を求めている女の子や、お金のために男を求めている女の子、そういう彼女らの欲求も比較的簡単にセックスに転化することができる。そしてもちろん、寂しいだけの女の子や不安を感じやすい女の子も。彼女が寂しがっているならそれはセックスチャンス以外の何物でもない。格好のカモだ。
だけどその視点にはナンパ師自身の欲求や感情が完全に抜き取られている。ナンパ師だって一人の人間だ。彼には彼固有の欲求や感情がある。純粋に真っ白な鏡のような心の持ち主を仮定してナンパの極意を語ったところで何になるだろう。そんな真っ白な人間ならナンパなんてしない。女の子の欲求は必ず何かしらの形で男の欲求や感情に働きかける。それがナンパに不利に働くこともあるだろう。そして結局のところ男女の欲望は作用・反作用し、響き合い、それで両者の関係が作られるのだ。そこにナンパの本質的な難しさがある。


関連エントリー

女の子は性処理の道具なのか