誘惑論 ナンパ技術の古今東西を探る


誘惑論・実践篇
誘惑論・実践篇
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大浦 康介
晃洋書房
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久しぶりの書評です。やばい本に出会ってしまった。友人がふと「面白いよ」と貸してくれた本が忘れられない一冊になった。誘惑論。しかも実践篇だと。つまりナンパを実践するための理論が書かれた本だ。けれども著者はナンパという用語をあまり好まず、誘惑という言葉で代用する。誘惑とは誘い惑わせること。何とも言えない甘美な響き。文章の形式としては、架空のナンパ塾の師範代に著者がインタビューをしていくという設定でページが進む。が、実質の内容は、古今東西の歴史上の人物や文学作品の中に見られる誘惑の技術を著者が分析したものになっている。取り上げられている題材を少し挙げてみるだけでも、ドン・ファン代々木忠、『わが秘密の生涯』、ミルトンエリクソン、『草枕』、ボードリヤールキルケゴール宮本武蔵、カサノヴァ、落合博満、『危険な関係』、クラーク・ゲーブル、『好色一代男』など、錚々たる顔ぶれ。サブカルチャーが狂喜感涙する内容である。読んでいて一番強く思ったのは、誘惑の技術って時代を経てもあまり進歩しないんだなあということ。いつの時代にも極めた人間はいるし、現代の誘惑の技術が必ずしも最先端というわけではない。その点は科学技術などとは対照的であり、身体を使うという点でも、そして人から人への技術の継承が比較的困難だという点でも、どちらかというとやはりスポーツに近い気がする。(ただし、このインターネット時代にナンパの歴史は一つのブレイクポイントを迎えた。それについてはまたいずれ書く。)
正直に言うと、この本があれば少なくともノウハウ部分に関しては俺のブログなんて全く読む必要はない。書かれていないのはセルフ・コントロールに関することぐらいだろうか。けれども自分のブログの存在危機に瀕しながらも、この本だけは紹介せずに済ますわけにはいかない。それぐらい本書の完成度は高いのだ。


対極的な二つのナンパスタイル

ーーちょっとお訊きしますが、誘惑の目的はセックスなんですか?


 今ごろそれを訊きますか?まいったなあ…。もちろんそうです。誘惑の目的はセックスです。ファック、ファック、ファックです。もう一度、ファックです。「落す」というのはそういうことですから。(p.102)


まず最初に。本書の全編を通して、自分は著者の誘惑の方法論に強力な美学を感じた。誘惑の目的をファックだと断言していながら、それに忠実に突き進むことを良しとしていない。そこに他のノウハウ本には見られない魅力がある。著者が批判する誘惑の仕方の例を一つ挙げよう。17世紀のヨーロッパにはドン・ファンという伝説的な女たらしがいた。ドン・ファンは今で言うところの結婚詐欺でセックスをものにしていく。ナンパ師用語で言うと、色を使う。色を使って数を稼ぐ。セックスのためには手段を選ばない。女性に結婚を約束して夢を見させた挙句、セックスをモノにした後は簡単に約束を破り婚約を破棄してしまう。著者はこのような誘惑の仕方を好まない。下劣なやり方であると喝破する。では、どういった誘惑を良しとするのか。

誘惑は、究極のところでは、<現在>の享受にかぎりなく近づこうとするノエシス的主体の回復をめざすのです。(p.46)

誘惑の理想は、「関係」を築かず、物語に頼らず、「夢」を与えず、いわば瞬間的享楽に徹することです。(p.117)

出会った瞬間、言葉を交わさなくてもお互いに身体の奥に何かを感じ求め合う。理性がはたらく前に勝負が決してしまう、それが著者の持っている理想のスタイルだ。しかし自分はこの類の誘惑の難しさ(そして簡単さ)は嫌というほど知っている。それは結局相性の問題なのだ。技術的なものではどうにもしがたい。統計的には、男性的なフェロモンを大量に発している人間ほど、この手の誘惑は成功しているはずだ。要は動物的な世界なのだ。そして、この理想スタイルが現実的な手法として有効かどうかには著者も疑問を投げかけている。

ではどうすればいいのか。著者は第三の道フィクションとしての誘惑を提案する。すなわち、人間ならば言葉を使ってもっとぼんやりとした世界に二人で雪崩れ込んでもいいでしょう、と。


第三の道はフィクションとしての誘惑

フィクションである、プレイであるということは、本気じゃないということだけでなく、ウソでもないということです。つまり騙すことを目的としないということです。言い方を換えれば、真偽が問われる世界とは別の世界に身をおくということです。ホントウを言うことが当然とされ、ウソが厳しく断罪される世界とはいわば位相のちがう言説世界に身をおくということです。(p.176)

言語の意味の世界に身体をがんじがらめにされるのでなく、非言語のバキーンとした直観の世界に身体を委ねるでもない。第三の道は、言語でフィクションの世界を作り出して、その中に2人で身を置いてしまうというものだ。その世界においては、勝ち負けの効果は無効化され、約束とは守るべきものでも破るべきものでもなくなってしまう。そして愛は?
女「これからは私以外の女とは絶対エッチしちゃダメだよ」
男「うん」
ナンパでセックスした後に頻繁にベッドで交わされるこのようなやりとり。男も女も本気で言っているのではない。そしてまた、男も女もお互いが本気で言っているのではないことを知っている。「本気ではない」というと語弊があるかもしれない。彼らは2人で作り上げたフィクションの世界を本気で演じているのだから。しかしこれが、
女「私、一週間後にはこのマンション引き払う予定なんだけど、どこかで一緒に住まない?」
だったら、男はシャレにならない。演じるどころではなくなってしまう。せっかく作り上げたフィクションの世界を壊さざるをえなくなる。そのようなセリフを女に言わせてはいけないのである。フィクションの世界に2人して留まり続けるためには相当に鋭敏なバランス感覚を必要とする。覚めてもいけないし、入り込みすぎてもいけないのだ。
このような世界において、おそらく愛は果実以外の何も意味しない。ひたすら軽量化をはかった羽毛の世界。存在の耐えられない軽さに耐えながら誘惑者はそのような世界でセックスをする。
誘惑とは良くも悪くも、かくも軽やかな行為なのである。


P理論とA理論

私がこの手の塾生に言うのは、すべてを言う必要はないということです。すべてを言わなくても全体の意味はひとりでに復旧されるということです。(p.160)


現実世界から離れたフィクションの世界への入り口を探しているなら、そしてその世界にとどまり続ける方法を探しているなら、著者の誘惑技術の骨子を支える2つの理論も紹介しておいたほうがいいだろう。フィクションの世界へは必ずしも男女お互いの合意によって入っていくわけではない。むしろきちんと言語による合意を形成するケースの方が稀である。フィクションへの入り口を探すための方法論、それがP理論とA理論だ。
P理論のPはファティック(phatic)のPである。ファティックとは言語学者ロマン・ヤコブソンによって見出された言語がもつ機能の一つであり、電話で最初に交わされる「もしもし」や日常的なあいさつ「こんにちわ」「いい天気ですね」のように、話し手どうしのコンタクトを設定したり維持したりする言葉がもつ機能のことを言う。ポイントは意味が希薄であるということ。すなわち情報としての価値が低いということ。意味伝達の伴わない発語。女性を誘惑する時はファティックを駆使しろと著者は言う。それによってまず第一に、とにもかくにも2者の関係は維持される。つながっていることがフィクションの世界へと入り込むための必要条件となる。そして第二に、意味の解釈を受け手自身に委ねることができるようになる。概してインテリほど言葉ですべてを表現して伝えようとする。けれども本当はその必要はないのだ。意味は聞き手が勝手に解釈してくれる。言語のもつこのポジティブな側面に賭けろということ。巷のギャル男は前髪をイジりながら「ヤバくね?」と「うぇーーーいwww」しか言わずにギャルをゲットしたりしますよね。ファティックを意識して駆使してるのかは知らんけど。


そして著者は誘惑する時はアホを装えとも言う。これがA(アホ)理論の概要だ。アホというのは自身の無知をさらけ出せという意味ではない。それは軽率な発言、不可解な発言、挑発的な、矛盾した発言を指す。それによって聞き手の感情に起伏が生じてゆく。

他人はあなたの言葉をあなたとは別様に解釈したりする。「思い」が強ければ強いほど、あなたが込める意味と相手が読みとる意味との乖離は大きくなります。それで、このギャップを最小限にとどめるために「他人がしゃべっているようにしゃべれ」と。(p.162)

私が塾生に説くもうひとつの点は、言葉と口調と表情と身ぶりを同じ方向にもっていってはいけないということです。(p.163)

アホな言説は意味を撹乱する。他人がしゃべっているようにそっけない口調で愛の告白をする。熱心に見つめながら「くだらないね」と言ったりする。これらの言語情報と非言語情報の乖離がフィクションの世界への入り口になっていくのだと思う。
要するに、ファティック(P理論)が話し手と聞き手のコンタクトを成立させ、会話を維持するためのものだとしたら、「アホ」(A理論)は聞き手を失笑させたり、怒らせたり、呆れさせたりして、聞き手の反論を誘発し、そうやって会話をかきまわし、盛り上げ、流れを、ダイナミズムをつくるためのものだということだ。この2つの手法を駆使して誘惑者はフィクションの世界に入り込み、2人はそこにとどまり続ける。
そしてそれはいつまで続くのだろうか?


フィクションの世界は恋愛空間へと変容しうるか

フィクションの世界の誘惑者はいつまでその世界にとどまっていることができるのだろう?またいつまでとどまっているべきなのだろうか?というのはやはり一人の誘惑者として意識せざるをえない問題である。もっと具体的なことを言うならば二人が恋愛の関係へと移行することはあるのだろうか。一つだけ確かなことはフィクションの世界では、覚醒は両者において必ず予感されているということ。そして、俺自身の結論を言うならば、フィクションの世界の外側から当事者双方にとって何かしらが強力なリアリティを持って迫ってきた時、フィクションは別の空間へと変容するのだと思う。

恋愛というのは幻想の共有です。その幻想が物語構造をもつということなんですが、恋愛幻想を支えているもののひとつは、こういってよければ「選別の意識」です。恋人たちがもつ、自分たちは互いに幾多の人々のなかから他ならぬ相手を選んだのだという意識ですね。(p.111)

恋愛というのは幻想なのかもしれないが、それは強烈なリアリティを持った幻想に違いない。だからこそ強い恋愛感情はフィクションの世界を脱する起爆剤になりうる。そしてもちろん、子供や、マネーや、病気なども。


自分がいちばん最初にナンパをきちんと成功させた時のことを思い出す。それはやはり渋谷だった。飲みに行った後に、彼女の住んでいるマンションにあっという間に連れ込まれた。声をかけたのはもちろん自分だ。だけどキチンとした口説きなんて実は一つもしていない。自分はただそこにいて、彼女と一緒に飲んで、それからセックスをしただけ。すべてが予め決定しているかのような夢のような体験だった。けれども自分は最初からすでに覚めてもいた。朝方、彼女が「ねえ、なんで私に声をかけてきたの?」と聞いてきた時、自分は正直に「誰でもよかった」と答えた。もちろん彼女は烈火の如く怒りだした。今だからそんな反応は簡単に予測できるけれども当時の自分にとって彼女の反応はひどく滑稽だった。それからはフィクションの甘ったるい世界を明確に意識するようになる。
自分がフィクションの世界に留まり続ける理由がいまだによくわからない。けれども外部からの何かしらがリアリティを持って自分に迫ってこない限り自分はナンパをやめることはできないだろうと思う。最後に著書内の名言を一つ。

誘惑者とは、ある意味、恋愛の冒頭部分をつねに新たに書き直している人間だといえるのかもしれません。(p.120)

自分の言葉で言うとこうなる。誘惑者とは、覚醒の予感を常に内に孕みながらフィクションの世界にそれでもとどまり続けようとする人間のことなのだと。


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